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古戦場めぐり「会津戦争・如来堂の戦い(福島県会津若松市)」

古戦場めぐり「会津戦争如来堂の戦い(福島県会津若松市)」

◎『会津戦争如来堂の戦い』

会津戊辰戦争で、京都の戦いで敗れた新選組は、旧幕府軍と共に戦おうとする土方歳三と、会津に留まろうとする斉藤一のグループ、隊を離れて戦おうとするグループが分裂しました。会津に残った斉藤一らは、如来堂(会津若松市神指町)に陣を敷き、会津に進攻してくる新政府軍と戦いましたが、戦運なくここが会津における新選組最後の戦いとなりました。

近藤勇亡き後の新選組は慶応4年(1868)4月11日、鴻ノ台(千葉県市川市)にいた大鳥圭介が率いる旧幕府軍に合流し、土方歳三会津藩先鋒軍指揮官・秋月登之助の参謀に就任しました。この時、新撰組は崩壊消滅し以後の土方歳三旧幕府軍として戦った、と理解できます。当時の新選組は、上野戦争(5月15日)前には、永倉新八や原田左之介が隊を離脱して「靖共隊」を結成し、土方や数名の新選組隊士旧幕府軍へ移る等の組織変動がありました。発足以来多くの処断者や自決者を出し、それでも命を掛けて遵守してきた鉄則の法度「局を脱するを許さず」や、隊の誇りともしてきた「武士道に背くまじき事」の局中法度も、この時点では消滅していたようです。法度遵守の先頭にあった土方も、新選組旧幕府軍に合流させた様に見えますが、反面ではあえて組名を残しつつも、その旧幕軍の役付きとなって旧幕府軍配下で一役を担っております。新選組隊士もここにきて、新選組としての法度を遵守するか否かは隊士個人の自由となっていたようです。土方はその後、宇都宮等で戦闘、会津母成峠の戦い(8月21日)にも参加し

ましたが、敗戦し会津の塩川方面に撤退しました。8月25日、旧幕府軍や土方は援軍を求め会津を離れ米沢庄内へ向かいましたが、当時、土方に代わる新撰組代理者であった斉藤一は、「今、落城せんとするを見て、志を捨て去る誠義にあらず」と、会津に残って徹底抗戦することを主張し隊員数名と共に旧幕府軍土方歳三らと分別しました。8月26日、斉藤一らは塩川に移り斉藤忠兵衛宅を本陣とします。9月2日、斉藤一らは長岡藩兵と共に陣ヶ峰峠(喜多方市)付近で新政府軍と戦闘します。9月3日、土方歳三庄内藩が新政府軍に恭順したために仙台へ転じます。

慶応4年(1868)9月4日、斉藤一が率いる新撰組は、木曽(喜多方市山都)で新政府軍と2時間もの戦闘となりますが(木曽の戦い)、敗れてしまいます。その後、高久村の戦闘に向かい旧幕府軍衝鋒隊と合流するため、鶴ヶ城の北西4?、神指(こうざし)城二ノ丸跡の南西に位置する「如来堂」(会津若松市神指町)へ向かいますが、衝鋒隊は既に塩川に出向き移動していました。如来堂に集まったのは、わずか13名の新撰組だけでした。そこを、待ち構えていた新政府軍300余りに取り囲まれてしまいました。

9月5日、斉藤一が率いる新撰組旧幕府軍衝鋒隊に代わり如来堂の守備につきますが、只見川で越後口新政府軍と対峙する会津兵の背後をつくために、高久に向け出動した薩摩・土佐・肥後等新政府軍の進路である越後街道を行き交う途中、如来堂本堂が戦地となりました。新選組はたった13名で、周囲を囲む300余りの新政府軍に不利ながら突撃血戦をしかけます。新選組は、この戦いで数名の戦死者を出しましたが、逃走可能な陣に居りながらそれだけの犠牲者を出したことは、ここでの戦が激戦であった証でそこに新選組の真髄を見た感じがあります。後に、新撰組隊士中島登(土方歳三に従軍)の描いた肖像画によると、如来堂の隊士は13名程しかおらず新撰組は壊滅しました。しかし、斉藤一(山口次郎)・池田七三郎・河合鉄五郎・粂部正親・清水卯吉・志村武蔵・吉田俊一郎の7名は生き延び、その後も新政府軍に対してゲリラ戦を仕掛けています。

○「如来堂古戦場跡」(会津若松市神指町如来堂)

神指町の田んぼの広がる一帯の中に小さな森があり、そこに如来堂があります。この如来堂は戊辰戦役の古戦場にあたり、新政府軍(西軍)の攻撃の前に斎藤一(山口次郎)の率いる新選組軍がやられた場所です。激戦の末、新選組隊士達は全滅したとされていたのですが、奇跡的に斎藤一(山口次郎)をはじめ数名の隊士が乱戦の中を脱出し生存しています。如来堂で戦った新撰組隊士は、次のとおりです。斎藤一山口二郎、脱出)・久米部正親(脱出後、仙台にて政府軍に降伏)・清水卯吉(戦死)・高橋渡(戦死)・高橋文次郎(戦死)・吉田俊太郎(脱出)・新井破摩男(脱出とも戦死とも?)・池田七三郎(脱出)・小幡三郎(戦死)・志村武蔵(脱出)・河合鉄五郎(脱出)。

如来堂は新選組の聖地として、未だに新選組ファンの訪問が絶えぬ場所となっています。また如来堂は「神指城跡」の一角にあったもので、その城地は、如来堂の対角に「高瀬の大欅」が見える辺りまでありました。如来堂付近には、御土居跡と思える土地の起伏や立木等もあって、敵を迎撃するには都合のよい場所でした。次の説明があります。

近藤勇亡き後、会津に入った土方歳三率いる新選組は母成峠の任となるが、西軍の攻撃の前に敗退した。庄内へ援軍を求めて、会津を離れようとする土方とは別に、山口は会津藩松平容保への恩義から?今落城せんとするのを見て志を捨て去るは誠義にあらず?と、会津に残留しての徹底抗戦を主張した。会津を去った土方とは対照的に、山口は20名(別説に十数名)ばかりの隊士と共にこの地に宿陣していたが、西軍の襲撃を受けて全滅(別説生存あり)した。」

新選組殉難地の碑】

如来堂には、「新選組殉難地の碑」があります。山口次郎こと斎藤一新選組隊士が守備したここ如来堂が新政府軍によって襲われ、隊士が全滅したとされる場所です。

斎藤一(山口次郎)】

ここ会津で隊長として新選組を率いた斎藤一(山口次郎)においては、会津藩が降伏開城した後、会津藩士として越後高田に幽閉され、下北半島へ島流しとなった会津藩斗南藩に改名)諸士と行動をともにし、苦渋をともにしたのち、その後は東京で警視庁に入り警察官として西南戦争にも従軍しており、大正の世まで生き抜きました。また、松平容保の仲人で山本八重の幼馴染の高木時尾と結婚し、3人の子どもをもうけました。

如来堂に残る弾痕跡】

如来堂は激戦地であったため、必ず銃砲弾痕跡があると思われ、探してみると如来堂裏の白壁1?位の面積に、直径2?位の円形穴状痕跡5個と、壁を仕切る柱に重弾痕様痕跡1個が残っています。また、庭の大銀杏の幹にも、ソフトボール大のハンマーか何かを打ち付けたような2個並んだ窪みがあります。これが弾痕跡かどうかは、確認できず不明です。

神指城跡】(会津若松市神指町大字高瀬字五百地)

如来堂から数十mのところにある神指(こうざし)城跡は、慶長5年(1600)2月から、会津120万石の藩主であった上杉景勝によって築城された城です。来るべき徳川家康との合戦に備えて築城を急いだといわれますが、本来の目的は新たな城郭を中心とする大きな町づくりにあったといいます。12万人を動員し、昼夜にわたる突貫工事で進められました。この時の総監が直江兼続です。完成していれば、鶴ヶ城の2倍の面積55haの巨大な近代城郭で、東日本最大の城となり、後の戊辰の役でアームストロング砲の餌食にもならずにすんだと思われます。関ヶ原の戦いの後に、景勝の改易により、未完のまま破棄されました。

○「阿弥陀寺斉藤一の墓」(会津若松市七日町4-20)

境内南にあってふわりと目を引く、御三階(ごさんがい)。これは、戊辰戦争の戦火でお堂が焼失したために、替わりの本堂として鶴ヶ城本丸より移築されたものです。また、戊辰の殉難者慰霊のための鐘楼もあります。老若男女が、銅銭や小判を持ち寄って建立した想いの結実です。戊辰戦争の戦死者1300柱が埋葬されている阿弥陀寺。ここには、戊辰の記憶が今なお深く刻まれています。現在、春と秋の彼岸には殉難者の安らかなるを祈って、供養会(くようえ)が心を尽くして行なわれています。

斉藤一の墓】

新撰組隊士斉藤一の墓も、その記憶を宿すものの一つです。会津のために、最後まで新政府軍に挑み続けた「義」の男は、終戦後も、会津人として生き、そして、誇り高く死んでいきました。

会津新撰組記念館】(会津若松市七日町6-7)

七日町にある阿弥陀寺の東方に、「会津新撰組記念館」があります。明治22年に建てられた店蔵を利用して、その二階に幕末・戊辰戦争時の貴重な資料が展示されています。七日町には他に、戊辰戦争時、新選組副長・土方歳三が宿泊した清水屋旅館跡や、会津新選組隊長・斎藤一(山口五郎)が眠る阿弥陀寺など新撰組とゆかりの場所があります。

【清水屋旅館跡・土方歳三寄宿地】(会津若松市七日町)

会津新撰組記念館から東に向かうと、「清水屋旅館跡」があります。清水屋旅館には、新選組副長・土方歳三吉田松陰も宿泊しています。周辺には、蔵造りの商家が点在しています。